UP 2012.5. ISH
シニア自然大学環境科2012年5月度野外活動
大阪の歴史と都市環境を考える
◇日時:2012.5.18(金) 10:00〜15:15
◇天気:晴れ時々曇り
◇集合:南海高野線 汐見橋駅 10:00
◇行先:難波八十八島を巡る(汐見橋〜伝法大橋〜福町))
◇目的:水の都大阪の治水の歴史から都市環境を考える
◇参加者:環境科 43名
 南海汐見橋駅に10時集合。参加者43人。
昨年に引き続き沖本さんの案内で 大阪沿岸部の7つの川 7つの橋を渡りながら 川を埋めたり 掘削したりして大阪を築き上げた人達の足跡をたどった。
行程:
南海汐見橋駅・・・日吉橋・・・大地震両川口津浪記念碑・・・天満宮行宮・・・尻無川の跡地・・・大阪市電発祥の地・・・松島新地・・・大阪市立九条小学校・・・安治川・・・初代大坂船奉行所跡・・・無憂園・・・鴉宮・・・鴻池本店・旧鴻池本宅・・・澪標住吉神社・・・淀川・・・阪神福町駅(解散)
1885年(明治18年)実測図 ,1845年(弘化2年)
淀川近くには多くの「島」がつく地名が多く点在しています。河内湖に注ぎこむ淀川、ならびに大和川が土砂を運び、島を形づくりしました。古代人は次々と海中から島(国土)が誕生してくる様に畏敬の念を覚え、これを「難波八十島」と呼びました。
また江戸時代になると先人たち、町民が埋め立てたり、掘削を行いました。ただし沿岸部であるがゆえに自然災害には弱く、大雨とか、台風、そして地震による津波などの自然災害との戦いでもあったわけです。それら先人たちの戦いの後を尋ね、今日の大阪を築いた先人たちの歴史を尋ねることとします。(行事案内書より)

                                   7つの川:道頓堀川、木津川、岩崎運河、安治川、六軒屋川、正連寺川、淀川
                                   7つの橋:汐見橋、日吉橋、大正橋、岩松橋、朝日橋、森巣橋、伝法大橋

歩行ルート図

@ 道頓堀川 汐見橋・日吉橋
道頓は人の名前だった。

江戸時代の初め安井道頓が開削に着手し 彼の死後徒弟の安井道トが完成(1615)。開削 者の名前を取り道頓堀と呼ばれるようになった。

A 木津川 大正橋

当時 島であった大正は橋が架かったことで陸地続きとなり 後の大正区との命名はこの橋名に由来する。

橋は欄干を五線譜にみたて「第九」の譜面。歩道にはメトロノームやピアノの鍵盤がデザインされている。

大正橋東詰北側に「大地震両川口津波記石碑」があります。建立(1855)されてから 設置場所は幾度か変わったが 地震に伴う津波の戒めを後世に語り継ぐ目的は 刻まれた文字に墨を入れる年中行事として長く受け継がれています。

大地震両川口津浪記石碑

木津川と道頓堀川合流地点の水門

B 岩崎運河 岩松橋

尻無川と木津川を結んだ運河(大正9年開削)。橋名は岩崎町と松島を結んだ事から頭文字を取り岩松とした。 松島:明治時代に築かれた遊郭のあった地。
今でも松島料理組合として営業しており通りの様子がこれまでとは異なる。大正10年には275軒 約4000人の娼妓がいたそうだ。

 
C 安治川 海底トンネル
何の変哲もない建物が海底トンネルの入り口で17m降り(階段・エレベータ) 約80mの長さのトンネルは歩行者と自転車専用。かつては自動車も通る事が出来た。安治川を横断する日本初(1944)の沈埋トンネル。
D 六軒家川 朝日橋
安治川が開かれる前はここが大阪の海の玄関口だった。 橋のたもとに「初代大阪船奉行所の跡」の碑がある。全国約200藩の中で日本一の船奉行所だったことからも 大阪の海の玄関口で要衝であった事が分る。

初代大坂船奉行所跡石碑

同左説明パネル

E 正蓮寺川 森巣橋

橋はあれども川が無い・・・

現在 総合整備事業が進められており工事中。川底を高速道路が走り 公園や遊歩道も出来る予定。

橋を渡ると鴉宮がある。古くは大阪の水運の玄関口であった。秀吉が出兵の際 やた鴉が船団を守護したとして 秀吉の命により鴉宮と改名したと言われている。

鴉宮神社

正蓮寺川改修工事

F 鴻池本店・旧鴻池本宅

和風屋敷に洋館をつけた和洋併置式邸宅で、「ステンドグラスを用いた装飾や、水洗トイレ、折りたたみ式のベッドなども設備されている。 明治13年、鴻池忠治郎がここ伝法に運輸建設業鴻池組を起こし、明治42年から昭和43年に本社・本店社屋「鴻池ビル」が完成するまで本店として使われた。
G淀川 伝法大橋
かつては複雑に入り組んだ幾つもの川が流れ、川幅も狭くよく洪水がおきた。オランダ人のデ・レ−ケが治水工事に着手。後にデ・レ−ケのあとを受け淀川改良工事を計画・指揮したのは日本の技術者沖野忠雄だった。川幅はそれまでの10倍の800mになった。淀川を語る時、淀川の治水工事に私財を投げ打ち奔走した政治家大橋房太郎(1860〜1935)の功績を忘れてはならないだろう。
○澪標(みおつくし)住吉神社 (此花区伝法3町目1)
延暦23年(804)遣唐使の航路安全を祈願して祭壇を作り 一行の帰路を迎えるため 水路の標識(澪標)を立てた。これが後に大阪市のマークとなる。境内前に澪標がある。
澪標=水脈(みお)の串の意
○大阪市電発祥の地 (西区千代崎2丁目8)
明治36年(1903) 花園橋西詰から築港埠頭までの5q運行された。(昭和44年に廃止)。
当時 大阪の重要な地区であった事が窺える。


澪標住吉神社にて集合写真(両端が切れてます。すみません)
まとめ
大阪沿岸部地域は 海抜ゼロ地帯であり古くから水との戦いであった事。また海に近く川や嶋が多いことから水運の拠点として栄え 発展していった事も窺い知る事ができた。
台風による高波の対策として防潮堤や水門が設けられていたが 近い将来起きるであろうと言われている南海地震に伴う大津波に対応できていないのが心配である。
大阪再発見の約8キロコースだった。
終点は阪神電車福町駅でした。桜川駅(汐見橋)から7駅分歩きました。大阪再発見案内人沖本さんご苦労様でした。また皆様お疲れさまでした。

文・資料/沖本・三戸 写真/伊月・沖本・北仲・石井 編集/石井
企画:沖本

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