2014年度環境科一泊研修旅行
2014.6.3Kita
〜別子銅山の歴史に学ぶ〜
■日時:2014.5.22(木)/23(金) 晴
■行先:第1日 観音寺さぬきうどん、大歩危峡
     第2日 別子銅山記念館、マイントピア端出場(はてば)、マイントピア東平(とうなる・東洋のマチュピチュ)
■交通:トーホーバス
■参加者:環境科33名
 <東洋のマチュピチュ>
   < 行 程 >
第1日:
梅田0810→瀬戸大橋→与島(1105〜1125)→さぬき豊中IC→昼食・観音寺将八本店(1200〜1250)→大歩危川下り(1400〜1450)→井川池田IC→三島川之江IC→ホテルグランフォーレ着1605(泊)
第2日:
ホテル0830→別子銅山記念館(0905〜1040)→マイントピア端出場(1050)→トロッコ電車で5分端出場の坑道→昼食・マイントピア端出場(1150〜1215)→マイクロバス2台に乗車30分→マイントピア東平(1310〜1420)→マイントピア端出場出発1500→吉野川SA(20)→大鳴門橋→淡路SA(20)→明石大橋→〜梅田着解散1930

第1日 2014.5.22(木)

1.大歩危、小歩危

本年度の環境科の研修旅行は四国方面である。去る5月22日〜23日に2日間の旅行を実施した。梅田第4ビル前に8時10分集合。参加者33名。観光バスを利用。幸いにも好天に恵まれ気分爽快である。瀬戸大橋経由で香川県へ。南へ少し走って観音寺市へ至る。ここで昼食をとる。将八本店という讃岐うどんの専門店へ入る。車中で参加者から希望食を募ったところ、釜揚げうどん定食が圧倒的に多かった。2階の予約席へ入ると既にお膳が並んでいる。朝飯が早かったため皆腹がぺこぺこで、お膳に並んでいたかやくご飯をすぐに食べ始める。遅れて出されたうどんはゆがきすぎでややのびていた。30人分を一度にゆがくのだからうどんやさんも大変だったろう。

バスに再び乗車していよいよ徳島県へ。道は次第に山道へ入る。坂を上っていくほどに道の傾斜がきつくなる。はるか左下に吉野川中流の水が光っている。約1時間ほどの乗車で小歩危へ至る。さらに坂を上り目的地の大歩危に到着。ところでオオボケ、コボケのボケとは何か。ボケとは古語でホキと言い、「崖」という意味だった。このホキがボケに変化したのだという(「吉野川」で検索)。遊覧船会社の建物前で停車。4階建てビルに相当する階段を降りる。乗船場は険しい断崖に挟まれた狭い空地の縁にある。遊覧船が数隻止まっている。左右の断崖にロープが数本張られておよそ100匹のカラフルな鯉のぼりが5月のさわやかな風の中で泳いでいる。水量の豊富な吉野川上流は音もなく流れている。遊覧船は30人くらいしか乗れない小型のモーターボートだ。我々は2隻に分乗して出発。渓流は深いところで10メートルもあるという。水は緑色に染まっており、船の中央に作られたガラス窓を覗いても水中は何も見えない。ガイドのおじさんがマイクで説明する。大歩危の両岸の岩は砂質片岩と泥質片岩で構成されていると。8千〜6千万年前に土地が隆起して現在の険しい山になったという。数キロメートル下流の小歩危とともに、2014年3月18日に国の天然記念物に指定された。約30分のクルーズで乗船場に帰着。その後、バスは一路高知県へ。四国中央市で高速道路を降りる。宿泊先のホテルグランフオーレへは予定より1時間近くも早く16時過ぎに到着した。


与島PA

川崎重工造船所

車中では俳句指導も 
 
「将八」の釜揚げうどん
 
船着き場のこいのぼり

 大歩危峡遊覧船
 
救命胴衣を着けて乗船

鵜のお出迎え

 遊覧船のすれちがい
 
砂岩が変成した砂質片岩の地層※

 遊覧船の陸揚げ設備
 
懐かしい現役のボンネットバス
砂岩が変成してできた砂質片岩(さしつへんがん)表面は風化が進んでいて淡い青灰色だが、中には鮮やかな緑色をしている。岩質は硬くこの砂質片岩で出来た分厚い地層が波状に曲がりひびが入って、浸食されて大歩危峡が生まれました

2.ホテルグランフオーレ

 ホテルでは予定どおり18時から夕食の宴会が始まる。会場は結婚式場として使われている部屋だと一目でわかる華やいだ部屋だ。和気あいあいと夕食会。石橋さんが恒例のマジックを披露してくれた。本当にプロ級の腕前である。いつも新しいネタを発表するのは大変だと思う。メンバーにこんな素晴らしい技能を持っている人がいることは、我々の誇りである。 

 このホテルは観光用ではないので大浴場はない。ホテル到着後すぐに部屋に備え付けの風呂に入る。驚いたことに着替えをいれる籠がない。衣類は直に床の上に置く。衛生上問題ではないか。さらに困ったことに入浴後に濡れたタオルを干すハンガーがない。受付で尋ねると洗面所の隅にでも置いといてください、という。翌朝顔を洗ったとき顔を拭くものがないではないか。まさか前夜使ったべちょべちょに濡れたタオルで顔を拭けない。翌朝は仕方なく手持ちのハンカチで顔を拭く。今までいろいろなホテルを利用してきたが、自分の手持ちのハンカチで顔を拭いたのは初めてだ。他の相客もそれぞれに困っていた。ホテルの経営者にも言い分があるだろうが、客に不快な思いをさせるホテルに未来はあるのだろうか。

ホテルグランフォーレ

飛び入り出演

石橋さんのマジック

第2日 2014.5.23(金)

3.別子銅山記念館、マイントピア端出場(はてば)

 8時半にホテルを出発。9時過ぎに別子銅山記念館に到着。記念館は別子銅山の歴史を多くの模型や写真で展示している。担当の田尾氏がていねいに説明してくれた。おそらく住友関係の会社に働いておられた人だろう。別子銅山は1691年に開坑され、1973年に閉山になるまで283年という長年にわたり採鉱されてきた。その間一環して住友一社で採掘してきた世界でも類をみない大鉱山だった。同じ銅山でも足尾銅山が公害をたれ流して悪名を天下に轟かせたのにくらべ、別子が公害発生を最小限にとどめたことは注目に値する。同じ事業を経営しても企業者の姿勢でかくも大きな違いが生ずるのだ。記念館を10時半に出てすぐにマイントピア本館へ到着。鉱山鉄道(トロッコ車)に乗車。約5分で端出場へ到着。333メートルもある観光坑道へ入る。ガイドの村上さんはきわめて知識豊富な女性だった。坑道は江戸ゾーン、近代ゾーン、体験ゾーンに分かれており、興味深く勉強できるようになっている。その後本館へ戻り本館内のレストランで昼食。12時40分にバスで出発。次第に道が細くなる。途中でマイクロバス2台に乗り換える。

別子銅山記念館

建物は半地下に設置されている

鉱山鉄道機関車

端出場・観光坑道へ

 ひんやりとした坑内に入る

 黄銅鉱や黄鉄鉱などの結晶(フキヨセ)

ジオラマの一部

 ガイド村上さんの説明

 旧火力発電所(明治45年建設)

4.マイントピア東平(とうなる)、東洋のマチュピチュ

 13時過ぎにマイントピア東平に到着。ここはかつて別子銅山の中心部となっていたところだ。採鉱本部、電車乗り場、鉄工所、木工所、小学校、社宅などがあったところだ。すでに建物はほとんど撤去されている。東側の傾斜地にある索道停車場、選鉱所,貯鉱庫には、レンガの構造物の残骸が昔の鉱山の面影を残している。かつて作家の荒俣宏がここを訪れて、これは東洋のマチュピチュだといったという。地元の新居浜市も東平を東洋のマチュピチュとして大々的に売りだそうとしている。我々が訪れたときも観光客はかなり多かった。ここはかつて日本有数の大鉱山だった。標高1210メートルの高所から下へ下へと掘り下げていき、海面下1000メートルまで掘り下げた。地熱60度にも達する地下では労働者の安全確保が困難となり、鉱山はついに閉山となった。しかし、現在のマイントピアは昔のイメージを彷彿とさせるものはほとんどない。文字通りのマイン(鉱山)トピアとなった。我々は再びマイクロバスへ乗り、元の大型バスに乗りかえる。予定より約1時間遅れて16時に帰路に就く。徳島自動車道経由で大鳴門橋、明石海峡大橋を渡って梅田第4ビルには19時に帰着した。全員無事故で帰ることができた。幹事の内海さんに感謝。

弁天岬 宗像神社前にて

海蝕岩

弁天岬を回り込む
 ”東洋のマチュピチュ”
貯鉱庫跡前での説明 

 ”東洋のマチュピチュ”

別子鉱山の産業のある町新居浜を楽しむガイドブックより
<別子鉱山略図> 

***** 旅の途中の花々 ****


企画:(4班)内海
文:長
写真:小林、島、大野
編集:北仲