UP 2016.3.16 kita
宝塚市長尾山系南麓斜面の住環境

(清荒神から売布神社を経て中山寺梅林まで)

1)午前10時30分、阪急宝塚線清荒神駅には総勢32名の環境科員が集合した。
本日は3月11日、5年前同月日に東日本大震災が発生した。大規模震災と津波及び原子力発電所の 事故により東北太平洋沿岸を中心に大被害が発生した。集まった32名は先ずそのことを想い起こし、 約2万人と伝えられる死者の冥福と一刻も早い復興を祈り、清荒神駅前オリエンテーションを始めた。

今回のテーマは、掲題にある「宝塚市長尾山系南麓斜面の住環境」視察とコース沿いの神社仏閣を始めとする宗教施設訪問と古墳等の史跡を探訪することにある。

先ず、下記のコースが全員に事前に資料をもって案内されていた。
過去2001年と2006年に行われた企画は、「中山寺奥の院」まで登り、そこから中山寺梅林まで 降りてくる山道コースであったが、今回は丁度その三角形の底辺を歩く形で次のようなコースを辿る。

阪急 清荒神駅 ― 清荒神参道 ― 蓬莱山清澄寺 ―(富岡鉄斎美術館‐春季休館中)― (参道の飲食店にて昼食)― 巡礼街道 ― 橋本関雪別邸跡 ― 売布神社 ― カトリック女子御受難修道会・御受難修道会「宝塚黙想の家」中山荘苑古墳市杵島姫神社紫雲山中山寺 白鳥塚古墳中山寺梅林 (下線部は足を止めた場所)

清荒神駅前オリエンテーション

2)以上の阪急清荒神駅前のオリエンテーションの後、10時35分全員元気に約1kmの清荒神参道マップを参照しながら登り始め、11時前には清荒神清澄寺の山門に到着した。

参道入口付近緑の鳥居

飛龍を模した参道案内図

黒田官兵衛と有馬街道

3)山門を入りイチョウの下で境内概略の説明後、境内マップを利用し各自自由散策を楽しんだ。
清荒神清澄寺は「竈の神さん」「商売の神さん」と親しみ崇められ多くの参拝者を集めてきた。しかし、お寺の関係者の方々は、あくまでも蓬莱山清澄寺ですとおっしゃっている。

清澄寺本堂と水かけ地蔵

「厄除け火箸」の山を見る環境科員

竜王瀧と不動明王

全員集合写真

午前11時50分清荒神清澄寺を出て、参道を途中まで戻り、昼食休憩所の「あづまや」にて、全員揃って昼食を取った。
開店準備中と忙しい時の「あづまや」さん    昔懐かしいお味は如何?

4) 12時50分、「あづまや」を出て、巡礼街道に入っていく。10分程住宅地の道を歩くと、旧橋本関雪別邸横の長い坂道を中国縦貫道路に沿って下る。最初の十字路を左に曲がり少し進むと左側に売布神社への緩やかな登りの参道があり、入っていくと石の鳥居を入ったところに広い空間が我々を迎えてくれるが、奥には急勾配の古い石段が続き社殿の屋根が正面に見える。推古天皇18年(605年)に創建されたと伝えられているが、江戸時代までは紆余曲折を経て所在が知れなくなって いた。大岡越前の時、古く延喜式神名帳に小社として記録された売布神社であることが分かったと言われている。
足に自信のない人は石段の下から参拝し、また、足に自身のある人たちも、手摺にすがり石段を登り参拝した。
石段を登る売布神社 と 仲間の説明に聞き入る環境科員

5) 参道を途中から左に急な坂を下りると、そこは打って変わってカトリック御受難修道会の修道院が静かに建っている。広大な自然に恵まれた敷地内には女子修道院と男子修道院があり、また一般信者も参加できる「宝塚黙想の家」という修練場施設がある。鬱蒼とした森を背景に白いキリスト像が両手を広げて人々を迎えてくれるが、現在建築物の修理中で関係者以外は入場できなかった。

仲間の説明を聞く環境科員

この衆生は救われるのか?

6)表に出て、近隣環境に特徴的な散在する溜池の一つの「菰池」沿いに住宅地に道を進む。菰池を 過ぎるところで、道を左に取り、更に住宅地に入る。大きなマンションの前を少し曲がると街区公園がある。この公園に入り奥の階段をまた登ると、くだんのマンションの西側に小規模(直径約12m、高さ約2.5m)ながら、構造的に基石が八角形に並べられ、南面の前庭部は幅8m、長さ4mの張り出しがあるという、日本唯一の形状を持つ7世紀中ごろに作られたと思われる古墳が、国の指定史跡として 保存されている。
その構造的ユニークさもさることながら、マンション建築時にその敷地予定地から発見されたという経緯にも我々は関心を寄せるところである。

仲間からの説明を熱心に聞く環境科員

一体誰が此処に眠るのか?

7)中山荘園古墳の見学を終えた後は、もと来た道を戻り、東へと更に進むと中山寺の墓地が見えてくる。墓地の中を通れば直ぐに梅林であるが、ここはもう少し先へ進み、山門より寺内に入ることにする。山門に至る手前に、市杵島姫神社がひっそりと佇んでいる。この神社は慶長8年3月に創建されたと伝わるが、もとは中山寺境内にあったものが明治の神仏分離でこの場所に移された。祭神は市杵島姫神と言われ、海運、商売、芸能の神として近隣の信仰を集めている。所謂弁財天信仰で、厳島神社と同じ神である。やがて左手に、大きな対の仁王と獅子像の収まった立派な山門が現れる。

市杵島姫神社

中山寺山門

中山寺の山門を潜ると塔頭が五つあり、それぞれに参拝所が設けられている。塔頭の間の石畳みの参道を進む。正面の石段の上には本堂の屋根や再建中の五重塔の工事覆いが見える。石段の手前に来ると右手にエスカレーターが動いており、流石安産祈願の観音と言われるだけあり、妊婦さんたちや高齢参拝者たちへの配慮が行き届いている。そのエスカレーターの前を突っ切り進み、更にその右手奥に行けば赤ん坊をベビーカーに乗せた若い夫婦用にエレベーターが本堂レベルにまで運んでくれる。

本堂レベルへのエスカレーター降口

我々は取敢えず、石段を登ると本堂へは更にもう一つ石段を上がることになるが、環境科員は先ず本堂の参拝を済ませる。中山寺は今から約1400年前聖徳太子によって創建されたと言われ、その後、花山法皇の御巡礼が988年に始まったことが西国三十三箇所と巡礼街道の始まりと言われるが、中山寺は二十四番目に来山されたとされている。源平の合戦や荒木焼けなどを経て、現在の建物は1603年に豊臣秀頼により再建されたと言われている。本尊は十一面観音菩薩とされている。
「親兄弟の顔に会える」と言われる五百羅漢堂や鐘楼、閻魔堂、大黒堂と数々の建造物が建っている。

8)その中に、古墳の羨道が暗く口を開いている場所がある。石畳みを踏みしめ中に入るとその先に創建当時の白鳥伝説にまつわる唐櫃と呼ばれる石棺を納めた玄室がある。今は墳丘の形は判別がつかないが、円墳か方墳であったろうと推定されている。使われている石材は凝灰岩で播磨竜山石と考えられている。先に見た中山荘園古墳などと同様にこの辺りに多くの古墳が存在していたことを物語っている。

9)信徒会館の前の広場からは武庫平野が一望できるが、眺めを楽しみながら通り抜けさらに墓地を左に見て、約100mほど奥の院への道を進むと右手に本日の最後の訪問地中山寺梅林の入り口がある。この梅林には約1000本の梅の木が咲く。この梅林は谷間の西向き斜面に作られており、開花時期は通常少し遅れる。今日は、午後より曇りがちで風が冷たく、人出はあまり多くはなく、また最近数日の 暖かい気候にも関わらず思いのほか多くの木々が花をつけて、斜面いっぱいに咲くウメの花は本日も見事なものだった。ウメの香りも風にのり我々を迎えてくれた。
本日は朝から短い昇り降りの連続を歩き続け、流石の環境科の猛者たちも、いささか疲労気味ではあったが、心身ともに安らぎを覚える梅林であった。

10)こうして、梅林内での現地解散を以って、本日の宝塚市内長尾山系南麓麓の巡礼街道を歩き、その住環境と宗教施設、史跡巡りの一日企画は午後3時前に無事終了した。天候に恵まれたことが何よりであったが、途中の大小さまざまな建造物や住宅の中には、その建造時や開発時には地元の大きな反対運動に巻き込まれたものも多々あった。現在の姿は決して満足すべきものではないのかもしれないが、いまそこに人々の生活の実体があることを考え、その環境をいかにして守っていくかを環境科員一人一人が考えて頂く助けになればと切望する次第です。
東日本大震災により大きな被害を受けた方々のことを想いながらも、本日ご参加くださった皆さんに心から感謝いたします。
以上