UP 2017.1.15 kita
西淀川の歴史、花川干潟清掃


一夜官女祭



野里住吉神社
野里住吉神社参拝後、社務所にて宮司さんから野里住吉神社で毎年2月19日、20日に執り行われる「一夜官女祭」について説明をいただいた。
野里地区は蛇行しながら伝法に流れる旧中津川に面する農村地帯であった。都市近郊農村として発展したが、海辺に近い水郷で、堤防が決壊する水害に悩まされていた。野里住吉神社はこの大河の右岸に接し、先人達が水流の激しくなる現在地に、住吉の大神を勧請した。創建は永徳二年(1382年)足利三代将軍義満の創建と伝えらえている。神社氏子地域は旧野里町で、現在の野里と、歌島・姫里の半分ずつが入る。元は農業の神様である稲荷社ではないかと言われるが、鬼門避けと水害避けに住吉大社を勧請したらしい。

大坂から尼崎・西宮へ通じる近道であったため、戦国時代は戦乱に巻き込まれることも多く、また風水害と悪疫の流行で村人たちは悲惨の明け暮れであった。近隣の村人たちは野里のことを「泣き村」と呼んでいた。

こういう状況の中、古老たちは村を救うために、娘を人身御供とすることにした。毎年定めの日に白矢の打ち込まれた家の娘を神に捧げるために唐櫃に入れ、深夜境内に放置した。
丁度七年目の準備をしている時、一人の武士が話を聞き、神は人を救うもので犠牲にするものではないと、自分が身代わりに唐櫃に入り確かめた。この武士こそ修行中の岩見重太郎であったと伝えられている。

その後娘が運ばれた跡地に乙女塚を建て、往時を偲ぶことにし、江戸時代から現在の一夜官女祭と3台の地車と太鼓を勇壮に打ち鳴らす夏祭りが神事として伝わった。動と静の好対照で、バランスを保ちながら、風水害の時の住民の一致団結が必要なので一年の無事と豊作を願い継承された。「一夜官女祭」は昭和43年大阪府の民俗文化財として指定された。

質疑応答で神社について説明があり、神道系の宗教団体としての神社本庁に日本で約8万社ある神社のうち、主要なものなど7万9千社以上が加盟している。伊勢神宮の正式名称は「神宮」で、神社本庁が発行する「神宮大麻の御札」を全国の神社で販売している。それを「神宮」の20年に一度の式年遷宮の資金の一部に充てているという。国宝・重文の修理以外は国からの補助はなく、神社の存続運営の苦労話もあった。


野里の渡し・檞の橋跡

野里住吉神社

参拝

社務所にてお話しを聞く

一夜官女祭の膳

寛永3年の古文書


本殿前にて

淀川花川干潟清掃
社務所で昼食を、とらせていただいた後に徒歩20分位で花川干潟に到着した。早速河川敷の公園と水辺の清掃をした。24人が約1時間半清掃した。見た目には綺麗であるが、草むらには色々なゴミがある。
多いのは相変わらず空き缶、ペットボトルで、タバコの吸い殻のポイ捨ても多い。

水辺にもゴミは多くあった

草むらにも

1ヶ所に集めます

これだけのゴミを拾いました

川が怒らぬよう願いを込めて清掃した。清掃の後は気分が良い、清々しい気持ちで解散となった。