UP 2017.2.6 kita
司馬遼太郎記念館と鴻池新田会所

司馬遼太郎記念館
近鉄小阪駅より記念館へ行く道中には、2月12日の「菜の花忌(司馬遼太郎の命日)」に向けて、彼が好んだ菜の花の鉢植えが数多く置かれていた。
閑静な住宅地の中にあるこの記念館は、平成8年2月12日に亡くなった司馬遼太郎の業績を伝えるため、自宅敷地に旧宅と一体になって建てられており、大阪府の登録博物館である。
雑木林のような庭に隣接された安藤忠雄氏の設計による地下1階、地上2階の記念館には6万冊と言われる蔵書の内、約2万冊が高さ11メートルの書架に収められ、その高さ凄さに圧倒される。その他に司馬氏が愛用したメガネ・万年筆なども展示されている。
彼の書斎も当時の状況のまま庭から見学でき、今も作家活動が続いているような雰囲気を感じさせる。
また、ボランティアとして活躍されておられる中瀬さんは、石橋さんのお知り合いで、当日この記念館についてお話いただきました。ありがとうございました。

近鉄河内小坂駅に集合

司馬遼太郎記念館へ到着

記念館の説明を受ける

書斎

菜の花によるアプローチ

自筆の歌碑




鴻池新田会所

鴻池新田会所の図
   


山中鹿之助
東大阪にあった新開池は宝永元年(1704)の大和川の付け替え工事により水位が低下し、それを受けて江戸中期に大阪の豪商・鴻池3代目鴻池善右衛門宗利がこの地に新田開発を行った。新田の開発面積は最大約260ヘクタールに及び、鴻池新田会所はその管理事務所でした。
開発された新田には農民を入植させ(村抱百姓や入作百姓)、木綿やれんこん栽培などが行わてれいた。
この新田開発を行った鴻池家は戦国時代の武将である山中鹿之助の長男が摂津国長尾村鴻池(現伊丹市)で酒造業で成功したことに始まり、鴻池家は海運業、金融業と手を広げていき、鴻池家によるこの新田経営は約240年に及んだという。
新田経営では、金融業のシステムを活かし、小作人の丁稚制度と暖簾分け同様、20年間新田で村抱百姓として働くと「二十年百姓」として70歳で年金(孝養米)が与えられ、入植者には家も貸し与えられたという。戦後は財閥解体と地主小作制度解体(農地開放)により、鴻池新田会所は新田管理事務所としての役割を終えた。会所はJR鴻池新田より歩いて5分の場所にあり、1707年に最初の建物が作られ、嘉永6年(1853)に大修理が行われた。本屋の広い土間と高い梁、簡素な座敷、4つの蔵、米つき場、船着場、庭石や石燈籠を配置し、巡って変化を楽しむように作られた庭(江戸時代末期の池和泉鑑賞式の平庭だそうです)、クスノキの巨木(補綴されていた)などがほぼそのまま現存しており、会所内の建物のうち本屋・屋敷蔵・文書蔵・米蔵・道具蔵の5棟は重要文化財となっている。そして東大阪市の郷土博物館で、蔵の中には当時の民具類もたくさん展示されている。
説明して下さった別所さんありがとうございました。(井上)

近鉄バスで鴻池新田まで

鴻池新田会所入口

朝日社

鴻池新田会所の説明を受ける

本屋とクスノキ

表長屋門