UP 2017.6.5 kita
大阪道修町の「製薬会社史料館」と「大林組歴史館」見学

■行 程

10時00分 淀屋橋駅出発
11時15分 田辺三菱製薬史料館にて説明を受ける
11時20分 塩野義製薬本社玄関ホールにて展示物見学
11時45分 少彦名神社にて一旦解散して各自近くの食堂にて昼食(各自昼休みくすりの道修町
     資料館見学)
13時00分 少彦名神社再集合
13時15分 大林組歴史館
14時30分 解散、各自中之島公園バラ園自由散策

■見学の概要

 大阪道修町は江戸時代に、清やオランダからの薬を一手に扱う「薬種仲買仲間」の店が軒を連ねていた。日本に入ってくる薬は、いったん道修町に集まり、全国に流通していった。その関係で現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが道修町通りの両側に多いことで知られている。御堂筋から堺筋の間の約300mに武田薬品工業、塩野義製薬、田辺三菱製薬等が本社を構え、医薬品に関する展示施設があり、「道修町ミュージアムストリート」として都心で木造店舗も残る個性的な街並みとなっており、商都大阪の雰囲気を感じる。

 江戸時代の日本医学の主流は漢方医学で、草根木皮を原料とする和漢薬が用いられていた。幕末に蘭学を通じてオランダ医学を範としていたが、明治3年政府はドイツ医学の採用を決定した。

 薬学も明治2年大阪・大手前に「舎密局」が設けられ、和漢薬から化学薬品を扱う西洋薬学への時代となった。

 しかし道修町の業者には西洋薬の知識はなく、西洋薬学教育が始まった。道修町を中心に大阪でも、大阪大学薬学部の前身である「大阪薬学専門学校」などが開校され、近代薬学教育がスタートした。

 町名の由来は、このあたりに「道修寺」という寺院があったからとする説や、江戸時代初期に北山道修(きたやま・どうしゅう)という薬学者がいたことにちなむとする説がある。なお、江戸時代中頃までは道修谷と呼ばれていた。

 各製薬会社には江戸時代からのこのような「薬の歴史」にちなむ資料が展示されている。このような展示物の説明を聞き、薬の歴史を学び、また商都大阪の都市環境の変遷を感じた。

 大林組歴史館は道修町の隣にあり、明治以来発展を遂げてきた大阪の街並の建設にあたり発展してきた同社の歴史と、建設技術と都市景観の変遷の歴史を知ることが出来た。


集合場所淀屋橋

道修町通り

道修町ミュージアムストリート

① 田辺三菱製薬史料館見学
 田辺三菱製薬は1678年初代田邊屋五郎兵衛が「田邊屋振出薬」の製造販売を家業として、店舗を開いたことに始まった。以来300有余年、人々の健康に貢献してきた。
展示の「くすりの道修町ゾーン」は明治初期の田邊屋の店構えが再現され、当時の道修町の活気あふれる街並が想像できる。

 「あゆみゾーン」は会社の収蔵品と映像により、会社の発展の歴史を辿ることができる。

 「いまと未来ゾーン」は田邊三菱製薬の時代を拓く新薬の研究開発から体と薬の密接な関係など、今と未来の姿が紹介されている。


館内に復元された明治期の田邊屋店舗

田邊屋発祥地

「いまと未来ゾーン」

田辺三菱製薬本社前にて

② 塩野義製薬本社玄関ホール展示物見学
 玄関ホールの一角に「絵びら」が展示されている。「絵びら」とは店主からお客様に配られた広告物で、江戸時代のものが展示されている。浮世絵師が腕を振るった極彩色の錦絵(版画)で当時の風俗や広告の歴史資料としてだけではなく、美術品としても評価されている。

 その他「引き札」と呼ばれる、江戸、明治、大正時代にかけての「くばり札」で開店披露、大安売りの宣伝のための広告チラシと言えるものが展示されている。

現代でも薬の宣伝・PRは多いが、江戸時代から薬と宣伝は付き物であったことが窺える。


塩野義製薬玄関ホール展示見学

絵びら・引札ギャラリー

金精丹本舗の引札

③ 少彦名神社、くすりの道修町資料館
 少彦名神社はくすりの神様がお祀りされ、その社務所ビルの3階に「くすりの道修町資料館」に様々な資料・パネルが展示されている。ゆっくり見学するには一時間かかるが、今日は昼休みの短い時間に各自自由に見学した。


少彦名神社

くすりの道修町資料館

資料館に展示されていた漢方薬

④ 大林組歴史館
 19世紀末、我が国では近代産業が一斉に立ち上がり、街並みを一新するような洋風建物や工場が建設されてきた。大林組の創業者大林芳五郎は明治25年大阪の地に土木建築請負業を創業した。その人柄により財界の重鎮から贔屓された。

 この歴史館は平成13年大林組創業110年を機に開設された。建物は同社の元本店ビルで、当時時代の尖端を示すデザインであった。土佐堀川の畔にあるモダンなデザインは当時、界隈のランドマークであったという。

 この建物が完成したころの大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれる産業都市であり、同時に豊かな消費都市でもあった。重厚で落ち着いた外観は当時の大阪の繁栄を象徴している。

 その記念すべき建物に大林組の社歴が紹介されている。全国で手掛けた土木構築物、建築物はまさに日本の明治以来の発展の歴史を思い起こさせる。スカイ・ツリーをを完成させ、宇宙エレベーターにも挑戦する同社の意欲に、創業者の意気込みのDNAを感じ取れた。


元本店ビル ルポンドシエルビル

大林組事業説明

大林組歴史館からの眺望

中之島公園のバラは見頃が過ぎて木の負担をなくすため、花は園芸業者の手によって摘み取られ、一輪も見ることはできなかった。それでも初夏の青空に新緑が映えていた。ビジネス街を歩くシニア団体の行列は何か場違いな感じがしたが、都会のオアシス中之島公園を歩いたらホッとした。