UP 2017.9.25 kita
阿武山地震観測所の見学

1.実施の概要

 平成29年9月15日にJR摂津富田駅に集合し(参加者26名)、大阪薬科大学までバス直行、下車の後、ボランテアガイドの案内により、阿武山の京大地震観測所まで徒歩により登る。かなり傾斜のきつい坂道だったが、アスファルト舗装道路のため全員無事に登った。前日とはうって変わってさわやかな秋空で気持よかった。2階の講義室で吉儀氏からビデオにより観測所の歴史、現況などの説明を受けた。見学は14時半で終了し、現地で自由解散した。
 同観測所は現在の正式名称を「京都大学防災研究所地震予知研究センター阿武山観測所」という。1930年、地元から3万坪の土地を300年の借用契約をして設立された。当初は京大理学部教室の実験室だった。ウイーヘルト地震計を設置した。その後各種の地震計を設置、日本での地震観測技術をリードした。1990年、防災研究所地震予知研究センターに統合。1995年、微小地震テレメーター観測の拠点、宇治キャンパスへ中枢部を移転した。このため現在この観測所にはわずか3名の研究員がいるだけである。一時廃止の声もあがったが、観測所の建物が地元の高槻市から歴史的建造物としての認定を受けたこともあり、建物の重厚なたたずまいの保存の声も強く、現在は一般の市民の見学を支援し、地震観測の知識普及に貢献する役目を担っている。1898年、大森惣吉博士がここで地震のS波を記録したのは大きな功績である。

2.地震計の概要

 最初に当観測所に設置された地震計はウイーヘルト地震計である。機械式の優秀な製品で1932年から1997年まで使用されていた。開発されたのは1904年だから1世紀近くも使用されていたことになる。ガリチン(ガリッチンと表記された本もある)地震計は1910年に開発された初の電磁式の製品で1938年から1967年まで使用されていた。佐々式地震計は1934年に開発され同年から1997年まで使用されていた。佐々氏は1956年に広域地震を観測するための強震計を開発し、同年から1991年まで当所で使用されていた。このほか、戦後にプレス・ユーイング地震計、PK110地震計、満点地震計などが開発された。戦後開発された計器はいずれも電磁式である。これらの計器が当所に大切に保管されている。


フレス・ユーイング地震計
      
阿武山観測所の概要説明

ウィーヘルト地震計(上下動)

ウィーヘルト地震計(水平動)

ウイーヘルト用煤かけ装置、
ニス塗り装置

佐々式大震計の説明を聞く
      
満点地震計

フーコーの振り子

屋上から大阪方面を望

螺旋階段を下る


3.阿武山古墳の発見

 1934年に観測所西側の空地にあらたに地震計を設置するため、空地を掘削したところ大きな石組のなかに石棺が発見された。観測所の係員たちは石棺を所内へ持ち込み中を開けて調べた。石棺は古代のものと思われた。吉田所長は京都の島津製作所のレントゲン技師にエックス線透視器を同所に運搬させ、石棺に埋葬されていた人骨を撮影した。棺桶は夾ちょ棺という高い身分の人間が入れられるもので、なかには金糸で編まれた麻布に玉枕が入っていた。その後の調査により、なかに埋葬されていた人物はなんと大化の改新に功績のあった藤原鎌足である可能性が出てきた。13世紀の日本史に功績のあった大人物である。それを知った当時の内務省の役人が、これ以上墓地をかき回すのは不敬罪にあたるからすぐに現状のまま復旧して埋葬せよと命令。人骨は棺桶へ戻されもとどおり埋葬された。撮影されたエックス線のフイルムはひそかに倉庫に保管された。この遺跡は文化庁により1983年に国の史跡に認定された。1988年、偶然の機会で倉庫に保管されていたフイルムが発見された。傷んでいたフイルムを慎重に復元、はじめて石棺の全容が判明したのである。
 見学の当日の午後、古墳を見学。古墳は山形に盛り土がなされておらず、平地に雑木(ウバメガシ?)が数十本植えられていた。木はいずれも10メートルほどの高さに成長していた。木が植わっているところが墓地の範囲だという。木の根によって石棺は傷んでいないのか、気がかりである。
 以上

阿武山古墳にて