UP 2018.4.27 kita
狭山池博物館

 涼しげに水をたたえる池の堤に咲く草花や緑の木々。その一辺に、どっしりと大きなコンクリートの箱。有名な建築家、安藤忠雄さん設計による狭山池博物館は、水とダムのイメージにあった巨大建築物だ。しかし、それにしても、なかなか入口にたどりつけない。階段を昇り降りして、ようやく館内に入り、講義室へ。そこで、まずは、同博物館学芸員の宮崎さんより「狭山池ダムから近現代のダムへ」と題した狭山池と現在のダムの分類などについての話を聴講した。
 



大阪狭山市HPより



 「古事記」「日本書紀」にもその記述がみられる狭山池であるが、その作られた年代はわかっていなかった。しかし、昭和57年の水害による大改修(1988~2002)で、堤を掘り起こしたところ、かつて使われていた上下2層の樋が、出土した。上層の樋管はヒノキ、下層はコウヤマキで作られており、下層のコウヤマキを年輪年代測定法によって調べたところ、616年に切り出されたものと判明した。これによって狭山池は7世紀前半に作られた最古のダム式ため池ということになった。飛鳥時代だから1400年も前のことである。
 ところで、ダムというのは、基礎地盤から堤頂までの高さが15メートル以上のものをダム、高さ15メートル未満のものを堰と呼ぶ(昭和39年河川法)ということで、高さ18mの狭山池はダムということになる。
 日本には現在約2726基のダムがある(ダム便覧2017)。
 ダムは材料・型式によって次のようにわけられる。


 狭山池はダムの種類でいえば、フィルダムの1つで土を積み上げて水をせき止めるアースダムである。灌漑用だけでなく、治水用も兼ね備え、1400年経った現在も農業用水として利用されている。近年はダム愛好家が増え、ダムカードが発行されたり、近くの店ではダムカレーなるものも食べることができる。
 



      

FLOUR狭山店 狭山池ダムカレー

 午後から2班に分かれ、ボランテイアガイドさんに館内説明をしていただいた。
 この博物館の展示のメインの1つが狭山池の堤体の断面標本である。その大きさは高さ15メートル、幅60メートルの大三角形。平成の大改修で切り出された堤の断面をそのまま保存している。それは、切り取った堤を3メートル×1.5メートルの土ブロック101個に分けて、ポリエチレングリコールを使った特殊な処理を行い、実物をそのまま保存することに成功したもので、最初に作られてから、行基、重源、片桐且元などにより少なくとも11回の改修、嵩上げの痕跡をみることができる。地震の跡も記録されていて、1400年の歴史がここに刻みこまれている。
 






 また、堤の中から出土した2つの樋が展示されている。コウヤマキで丸木舟のようにつくられた下層の樋管は飛鳥時代のもので、上層のヒノキの樋管は江戸時代のもの。その差1000年の間、築造当初の樋本体が壊れずに使われていたわけで、コウヤマキの耐水性はひときわすぐれたものがある。また、飛鳥から奈良時代にかけては堤を作る工法として同時代の中国や韓国から伝わった、土とアラカシの枝葉を交互に重ね踏みかためていく敷葉工法が使われていて、当時の土木技術は非常に高かったと思われる。
狭山池出土木樋および重源狭山池改修碑は重要文化財に指定されている。
 



敷葉土層

下層東樋 http://www.japanriver.or.jpより

 狭山池は泉北丘陵と羽曳野丘陵に挟まれた標高85メートルの高低差で、北に向かって溜池などを経由しながら、大阪平野を広く潤し、1400年間、その稲作を支え続けてきた。そして、現在もその役割を担っている。 さらに、平成の大改修では、洪水調節のための治水ダムの要素を加え、農業用水容量180万㎥に、洪水調整容量100万㎥を付加した。周囲約3㎞の遊歩道も整備され、地域の人々の憩いの場になっている。
気持ちのよい陽気のなか、その遊歩道を巡り、金剛駅で解散となった。
 

大和川が付け替えられる前はより北方まで灌漑されていた