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姫路海軍航空隊戦跡巡りと三木散策
◇日時:2023.2.24(金) 雨のち曇り
◇集合:8:30 大阪第4ビル前
◇行先:加西市 姫路海軍航空隊戦跡鶉野飛行場
     三木市 三木城跡・金物資料館・玉置家住宅
◇交通:ジョイックス(株) 第1観光 小型バス
◇参加者:自然と環境科 14名

soraかさい 紫電改
 第二次世界大戦が激化し始めた頃、パイロット養成を目的に昭和18年に完成した旧日本海軍の鶉野(うずらの)飛行場。姫路海軍航空隊が開隊され、多くの若者が飛行機の操縦訓練を実施。また、滑走路の南西にあった川西航空機姫路製作所鶉野工場では、「紫電」「紫電改」など500機あまりの戦闘機が組み立てられた。戦後78年、鶉野飛行場等姫路海軍航空隊戦跡を巡り、帰路、金物のまちとして栄えた三木を訪れました。
行程:
・大阪第4ビル前8:30…(中国道)…赤松PA(9:35休憩9:45)…加西IC…姫路海軍航空隊戦跡(10:15見学・昼食13:10)…三木城跡・金物資料館・旧玉置家住宅(13:45見学15:25)…道の駅三木(15:30休憩16:00)…三木小野IC…(中国道)…大阪駅17:25
戦跡巡り行程図  三木城跡行程図
「鶉野飛行場跡」 
 出発直前から降り出した雨のなか姫路海軍航空隊戦跡の鶉野飛行場を目指す。中国道池田IC付近の工事で約15分遅れて「SORAかさい」に到着。現地ガイド水田さんほか1名の出迎えを受ける。「SORAかさい」は戦跡周遊のための交流拠点で、その中に戦争の史実を伝える「鶉野(うずらの)ミュージアム」があり、紫電改などを展示している。まずは平和祈念碑の前で英霊に黙とうを捧げる。戦跡を回る前にSORA加西のミュージアムに入り、丁度始まったばかりの姫路海軍航空隊の開隊から終戦までのストーリー映像を観る。

SORA加西前で

平和祈念碑に黙とう

紫電改・97式艦上特攻機を展示
 あいにくの雨で、鶉野飛行場跡はバスの中からの見学になった。ここで操縦訓練を受けた若者が姫路海軍航空隊特別攻撃隊『白鷺隊』として串田基地へ送られ、沖縄特攻作戦で63名が散った。長さ1200m、幅60m、冬枯れの雑草に覆われた滑走路は何事もなかったのように雨に霞んでいた。

雨に煙る

鶉野飛行場

鶉野飛行場航空写真(加西市資料から)
「巨大防空壕」
 滑走路の南端でバスを降り、巨大防空壕へ向かう。広い草原は神戸大学の農場である。この辺り、映画「火垂るの墓」のロケ地であったという。かなたに小山のように見えるところが防空壕で、カモフラージュされている。コンクリートの急階段を地下に降りると、椅子の並んだ小部屋がある。コンクリート天井に排水路もあるこの場所は自力発電機が置かれていたとのこと。今はシアターになっていて、「白鷺隊」に所属した隊員たちが残した遺書を映像で公開している。有料で時間もないのでパス。地上に上がり、次の機銃座へ歩く。

神戸大学農場内にある小山のような防空壕

巨大防空壕

防空壕入口

地下壕に下りる

コンクリートで固められた巨大防空壕 自力発電機が設置してあった
「機銃座」
 攻撃してくる飛行機を迎え撃つための対空機銃座で、1分間に230発の弾を5,000mまで発射できたという。地下室も含め、完全な状態で残っている。この機銃は、平成17年に、東映株式会社が製作した映画「男たちの大和」の撮影に使用された「戦艦大和」に装備された実物大の模型である。

機銃座への道

機銃座
「衛門」
 北条鉄道法華口から1kmのところに姫路海軍航空隊衛門がる。門柱の礎石が保存され、衛兵詰所も建っている。衛門手前の道路脇にコンクリート製防空壕があり、中へ入ってみる。入口と出口があり中はコの字型で真っ暗闇です。これは通行中、機銃掃射にあった時に逃げ込むための防空壕です。ほかにも爆弾庫や多くの防空壕があるが、神戸大学の管理地にあったお陰でいまに見ることができます。集合写真を撮り、再びバスでSORA加西へ戻りました。バス中で水田ガイドさんの戦争体験をお聞きしました。ご本人は戦後生まれですが、身内でお二人をなくされたそうです。

姫路海軍航空隊衛門で

衛門前防空壕で

法華口駅からの道しるべ
「鶉野ミュージアム」
 多目的室を借用して昼食をとった後、鶉野ミュージアムを見学する。滑走路の南西にあった川西航空機姫路製作所鶉野工場で組み立てられていた戦闘機「紫電改」と、パイロット養成に使用され、特攻機としても使われた「九七式艦上攻撃機」の実物大模型を展示している。ゼロ戦を上回る性能の「紫電改」は本領を発揮しないまま終戦を迎えたという。
まだまだお話したいことはたくさんあったことと思いますが、時間の関係で見学は終わりです。最後に三木市教育委員会調査の戦跡マップをご覧ください。

ゼロ戦との性能比較を説明する水田ガイド

鶉野ミュージアム 上段「九七式艦上攻撃機」、下段「紫電改」

三木
三木中央公民館Pで三木市ガイド長曾我部さん、清家さんに迎えられる。高貴なお名前が話題を呼ぶ。雨も上がってきた。お二人の案内で三木城跡、金物資料館、玉置家住宅を見学する。

三木は金物の町

湯の山街道 マンホールの蓋も金物をあしらっている
「三木城跡」
 三木城跡へは湯の山街道のアーケード街を通っていく。街角の金物屋は三木の歴史を物語る。二の丸公園となっている城跡へは何本かの坂道を上るが、高齢者集団に配慮して階段のない緩やかな道を選ぶ。大きなケヤキに囲まれた城跡でカヤの巨木が目を引く。天守といった建物はない。

街角の金物屋

三木城跡へ
「三木合戦」は、1578年(天正6年)〜1580年(天正8年)、織田方の「羽柴秀吉」と、毛利方の「別所長治」が戦った合戦です。羽柴秀吉軍は、難攻不落の三木城を「兵糧攻め」で攻撃。城内で多数の餓死者を出したこの戦いは、「三木の干殺し」とも言われています。城内の兵糧がいよいよ尽き、飢えに苦しむ城兵や領民の様子を目の当たりにした別所長治は、その惨状に耐え切れず、城内の将兵の命を助けることを条件に自害し、三木城が陥落する。辞世の句碑がある。

城跡より三木の町を望む

別所長治公

辞世の句:今はただ恨みもあらじ諸人の命にかわる我身と思えば

城郭

三木城跡で
「金物資料館」
 三木金物の発展は、三木市の歴史において重要な位置を占めています。昭和51年に開館した金物資料館は、金物に関する貴重な資料、金物製品を保存、展示している。古来から伝わる鍛冶製法や、職人さんが「かじやさん」と呼ばれていた時のことが、よく分かる。ビデオを視聴し職員からのこぎりの発達のお話を伺う。

金物資料館

村のかじやの音楽が流れる

三木金物祭りビデオ視聴

金物の歴史を展示

のこぎりの歴史説明
「玉置家住宅」
 この建物は、文政9年(1826年)に、上州館林藩の財政建て直しを図るため、切手会所(今の銀行)として建てられたことをはじまりとしている。建物は江戸時代に建てられた第一期の建物と、明治以降に増築された第二期の建物に分かれています。第一期の建物は、文政九年(1826年)に建てられた母屋二棟(道路側)、土蔵一棟(中庭右側)。第二期の建物は、明治初期に玉置家の居宅になって、初代大器氏と三代目福蔵氏により、離れ座敷、渡り廊下が増築され、当時の匠技が施されてる。建物からは美嚢川を挟んで三木の町が眺められる。庭園には「御衣黄(ごいこう)」というサトザクラがあり八重で黄と緑の入り混じった花が咲くという。(国登録有形文化財)

旧玉置家住宅へ

玉置家は切手会所(今の銀行)から始まった

雛飾り

庭園

住宅前を流れる美嚢川
帰途、三木道の駅に寄り、金物をお土産に買う。売れ筋は包丁とのこと、爪切りに人気があった。

道の駅三木

金物展示館で 爪切りを探す
「おわりに」
 戦後78年、戦跡巡りの旅であったが、参加者14名中8名が戦争体験者である。帰りのバス中で、終戦時の思い出をお話しいただいた。満州や朝鮮からの引き揚げの苦労、本土での空襲、機銃掃射、防空壕に逃げ込んだこと等々。今ある平和は、国のため尊い命を捧げた若者の上にあることを忘れてはならないことをあらためて思う。ウクライナに平和が戻ることを祈りたい。鶉野飛行場や三木を案内いただいたガイドの皆さんさん、ありがとうございました。
文/平山、写真/加藤・平山、編集/平山

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