観察会記録(2018年 12月度)
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滋賀県・佐和山城址観察会

観察日: 平成30年12月14日(金) 時間:約5時間 

天 候: くもり


コース : JR彦根駅→龍潭寺→西の丸分岐→西の丸→佐和山城天守跡→隅石・千貫の井→太鼓丸跡→虎口→二の丸→
      三の丸→馬冷池→大手門跡→JR彦根駅

コース・タイム : 10:00JR彦根駅→10:10石田三成屋敷跡・湖東窯跡→10:30龍潭寺(休憩)→11:00西の丸分岐→
       
11:10西の丸跡→11:20天守跡(〜11:50昼食)→12:00千貫の井→12:20太鼓丸跡→12:30千畳敷・虎口→
          13:35三の丸跡→13:50馬冷池→14:15大手門跡→14:50JR彦根駅 解散

参加者 : 17名
「観察会概要」

彦根駅にて本日ガイドして頂く、T・I さんと合流、1 名が少し遅れるとの事で14 名にて観察会をスタートした。朝鮮通信使が通った朝鮮人街道・石田三成屋敷跡・明治に途絶した湖東窯跡等の説明を受けながら、更に三成茶の井竹林・三成屋敷跡石碑(この場所は間違いらしい)、ルートを示す石垣等も見ながら歩き、佐和山城址登城口のある龍潭寺に到着。ここで1 名合流した。
龍潭寺は大河ドラマ「女城主直虎」で寺の名前がでてきたが、これは浜松の井伊谷にある。当寺はそこから住職を招き建立されたもの。直ぐ近くにある菩提寺「清凉寺」と共に井伊家に手厚く保護された。境内入口には石田三成像、墓地には井伊直弼生母の墓があった。
墓地を通り抜けると少し急な階段道になった。これを登り、西の丸への分岐点にでた。ここで小休止した。この辺りは西の丸の北西に位置し「かもう坂通り往還」(通称「龍潭寺越え」)の切通し道と交差しているところらしい。
100mほど進むと三段に分かれた曲輪「西の丸跡」の最北端に位置する塩硝櫓にでた。この曲輪には土塁が見られ、その立地から城外への防御ラインと考えられる。又地面を見ると沢山の瓦片が散乱。当時のもので、何らかの建物が存在したと考えられている。
西の丸から更に坂道を登ると「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」と言われた佐和山城の天守跡に到着した。標高232.9m、天守台は4.5mあり、5層の天守 があったと伝えられているが、大規模な破城で今は何の痕跡もない。山頂からは360度の展望が広がり、少し雪を被った伊吹山や荒神山、繖山、安土山等が一望できた。多くのモミジがあり、少し紅葉が残っていた。
昼食後観察を再開。 天守跡を少し下ると当時の石垣が見られる 。佐和山城の石垣は後に彦根城築城時に全て移されており、わずか残った貴重なもの。更に山上に築かれた城にとり、貴重で千貫に値するとの事で名付けられた 「千貫井」を観察した。みた限りではただの水溜まりのようだった。
落城の際に、城中の多くの女性が身を投げたといわれる女郎谷を過ぎ、太鼓丸跡に向かった 。女郎谷から元の道に戻るのが本来のコースだが、山歩きが好きな人が多いので、太鼓丸・虎口・二の丸跡・三の丸跡等も案内するとのこと。太鼓丸への途中、猿の糞(人間と同じような )を発見。
太鼓丸を過ぎ、千畳敷・虎口を観察した後、元の太鼓丸分岐点に戻り、二の丸跡(土佐丸とも言う)・三の丸跡(島左近の陣跡 ?)に向かったが、途中未整備な道があり、右の写真のようなヤブ漕ぎ、尻すべりで降りるような急坂など歩き難い道を歩いた 。残念だがここで事故が発生。
各跡との説明があるも、痕跡が見つけられずただ森の中との感じだった。
三の丸跡から山の麓まで下山、馬冷池に到着。こで小休止。名の通り、ここで馬を洗うために、使われていたかも知れないとのこと。又現在は田んぼだが、当時はこの一帯は侍屋敷があったところ。途中コクランを多く観察。
城下町の本町筋(メインロード )にでた。このあたりが城下町で、今は全て田んぼだが、侍屋敷、町屋が並んでいたところ。右に佐和山を見て少し歩くと大手口跡の看板があった。ここに大手門が築かれており、今は小さい川だが、道路近くまで広がっていた内堀に水が今も流れている。
個人の持ち物である五重塔、地蔵さんを祀ったお堂等を見ながらJR彦根駅まで戻ってきた。ここで解散。
本日の観察会は北国の為、降水確率が少し高かったので心配だったが、殆ど雨に会わずラッキーだった。又ガイドさんの説明で歴史を勉強できる良い機会だった。
今回散策したマップは下図の通りで、 7.3km歩きました 。ご参加の皆様お疲れ様でした。
但し城跡散策という事で、楽勝と考えていましたが、未整備のコースで藪漕ぎや急坂も歩き、意外にハードな観察会となりました。

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